2006年12月03日

「ウォーカーズ〜迷子の大人たち〜」最終回

11月25日(土)放送の第3回は四国と東京の対比が印象的だった。江口洋介演じる主人公が一度東京の生活にもどって、自分の決断で再び歩きはじめることは、ドラマの設定としても必要なことだったろう。

12月2日(土)放送の第4回は香川県が舞台で、いよいよ最終回。

讃岐の札所や遍路道がなかなかうまく使われていた(ツッコミどころはおいといて)。周辺の見どころやお店では、琴弾公園の展望台から眺める寛永通宝の銭形、俳句茶屋、熊岡のカタパン、屋島のカワラケ投げ、八十八庵などが登場。

なかでも根香寺の石段は、三浦友和・風吹ジュン演じる夫婦にとってのクライマックス、新たな出会いのシーンにちょうどいい場所だった。山門からいったん石段を下って、そのあとでもう一度登る構造になっている参道をうまく使っていた。

結願後、原田芳雄演じる大先達の元カメラマンが、これまで一緒に歩いてきた一人ひとりの写真をゆっくり撮るなど、余韻のある終わり方もよかった。
posted by namo at 22:07| Comment(1) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月20日

「ウォーカーズ〜迷子の大人たち〜」第2回

11月18日(土)の第2回は高知県が舞台。

深刻な話も出てきたが、基本的に軽いタッチで描かれているので、それほど暗い感じはない。

ツッコミどころだけ軽くふれておく。

なんでわざわざバナナのお接待にしたのだろう? 柑橘類とかビワとか、夏ならトマトやスイカとか、もっとありそうな果物にすればいいのに。

御蔵洞の中のロウソクの数がすごくてやけに明るい。

24番最御崎寺への登りで車道を使わなくてもいいんじゃないか。下りならなんの違和感もないし、シーンとしても問題ないだろう。

36番青龍寺への参道あたりにあんなに小学生がいるか?

とはいっても、これらはたいしたことではない。どっちでもいいことだ。

いちばん気になったのは、四万十川を沈下橋で渡るところ。いったいどこを歩いてるんだろうか。絵になるシーンではあっても、遍路道としては超変則的なルート選択になる。
posted by namo at 01:02| Comment(2) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月12日

「ウォーカーズ〜迷子の大人たち〜」第1回

11月11日(土)の夜9時から、NHKで四国遍路に関連したドラマが放映された。1回1時間で4回の連続ドラマだ。

お遍路経験者のブログなどを見ると、「歩き遍路があんなにいっぱいいるか」とか、「焼山寺の遍路ころがしはあんなもんじゃない」とか、「空海さんじゃなくてお大師さんだろ」とか、いろいろツッコミが入れられていたが、けっこうおもしろかった。

遍路道の風景もなつかしいが、装束や装備、小物なども気になってつい見てしまう。

江口洋介が1番霊山寺に入るシーンでは、へんろみち保存協力会の『四国遍路ひとり歩き同行二人』の地図編を持っているのに気がついた。

戸田菜穂が居酒屋で四国遍路のガイドブックを見ているシーンでは、ヤマケイの『四国八十八カ所を歩く』の新版が出てきた。なぜかカバーを加工して少し変えてあり、サブタイトルの部分が大きな字で白ヌキになっていた。ガイドブックだということをよりわかりやすくするためなのだろうか。

次週も楽しみだ。

ウォーカーズHP
posted by namo at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月26日

四国遍路の民衆史(山本和加子/新人物往来社)

この本は、真念や寂本による江戸時代の四国遍路ガイドブック制作についても詳細に書かれており、よくまとめられているが、いちばん印象に残っているのは「接待講」についての記述だ。

接待講は経済的な余裕のある人たちが行なっていたのだと思っていたが、その多くは貧しい村々で組織されていたようだ。

和歌山県の高野山麓の村々は、領主である高野山に対して何度も一揆を起こすほど、年貢の増税に苦しめられていた。有名な「紀州接待講」はそのような状況のなかで始められ、毎年欠かさず四国でのお接待が行なわれていたという。

著者の言葉はなかなか痛烈だ。

「(高野山領の農民たちは)絢爛豪華な金堂で錦織の法衣をまとった高僧のなかに、弘法大師の存在を認めていなかった。(中略)それよりも彼ら領民たちは、潮たれて山風に打たれて歩きつづける遍路の姿に、弘法大師を見、接待するわが心の中に、弘法大師の心を感じとっていたのである」

実際、現代の四国遍路のお接待に接するとき、それが誰かに教えこまれた信仰から出たものというより、個人のやさしい思いから生まれる自発的な行為として感じられることが多い。

お接待は、いわゆる「チャリティー」のようなものとは、異質なものなのだ。

ところで、本書のなかでハンセン病に関してふれられている部分は、古い知識に基づいたもので、問題がある。本書の発行は奥付を見ると1995年の12月。翌年の1996年4月には「らい予防法」が廃止されており、それ以前にハンセン病の隔離政策の問題点はよく報道されていたはずだ。発売されてすぐに読んだのだが、当時疑問を感じたのを憶えている。

book data:四国遍路の民衆史/山本和加子/新人物往来社/1995年
posted by namo at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 遍路本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月02日

四国遍路の寺(五来重/角川書店)

本書はカルチャーセンターでの24回の講話をまとめたもので、上下巻の2巻からなる。

四国遍路に関する総論的な講話もあるが、具体的に個々の札所についてもふれられている。奥の院や番外霊場についても言及されている反面、講話をまとめたものということもあって、一部の札所についての話がヌケているのがちょっと残念だ。

だが、そうした部分を差し引いても、「歩く宗教民俗学者」と呼ばれる著者が自らの足で検証したオリジナルな見解が光る本書は、四国遍路に関する最高の解説書のひとつと言っていいだろう。

「海の修験」「辺路(へじ)」「行道(ぎょうどう)」といったキーワードとともにあぶりだされる四国遍路の本質も興味深いが、それ以外にも注目すべき指摘が数々みられる。

一例をあげよう。75番札所の善通寺という名称は空海の父親の名前に由来するとガイドブックなどには書かれているが、これは『南海流浪記』に「善通之寺ハ大師御先祖ノ俗名ヲ即寺号ト為ス』とあり、大師の父ではなく古代寺院を勧進で再興した先祖の聖の名前だと考えられるということだ。

ワンパターンの札所解説本を何冊読んでも、こうした情報にはなかなか出合えない。遍路について深く知りたいと思う人には、最良の入門書になる。

book data:四国遍路の寺(上・下)/五来重/角川書店/1996年
posted by namo at 21:50| Comment(0) | TrackBack(2) | 遍路本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月22日

空海や行基はなぜ鯖を欲しがるのか

前回、鯖大師の空海と鯖の話のもとは、行基であったことにふれた。

だが、弘法大師にしても行基にしても、なぜ僧がナマグサモノである鯖を所望するのだろうか?

空海や行基にささげられた鯖とは、もともと峠の神にささげられたサバ(生飯)だった。

サバ(生飯)とは、『広辞苑』にも出ているように次のような意味がある。

「食前に飯を少し取り分けて鬼神などに供するもの。屋根などにまいておく。三飯、三把、産飯、祭飯、最把、散飯とも書く。さんば。さんばん」

峠の神、手向け(たむけ)の神にささげられていたサバが、鯖の話に変わっていったというわけだ。

八坂八浜には峠が続く。鯖瀬の大坂峠を越える旅人や地元の人が、峠の神さまに飯粒を何粒かささげたりしていた民間信仰が、行基と鯖の話、そして弘法大師と鯖の話へと変化していったというのが、ひとつの民俗学的解釈だ。
posted by namo at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | へんろ雑学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月17日

鯖大師と行基庵

23番薬王寺から24番最御崎寺までは80キロ近い長丁場で、歩けば2日以上かかる距離だ。1日歩いてもひとつの札所にさえ行き当たらない。

そのため、道沿いの番外札所に立ち寄る人も多い。

なかでも鯖大師(さばだいし・八坂寺)は大きなお寺で、別格二十霊場にも数えられ、お遍路さんにも親しまれている。

ここには弘法大師と鯖にちなんだ話が伝わっているが、もともとの話の登場人物は、お大師さんではなく行基(ぎょうき)だったという。

そして、現在「鯖大師」と呼ばれている霊場も、「行基庵」「鯖瀬庵」という小堂だったようだ。

このあたりは「八坂八浜(やさかやはま)」と呼ばれ、海辺の坂道をひとつ越えるたびに美しい浜が現れる。現在の車道を通っていたのではなかなか実感できないが、昔はそれが八つ(あるいはそれ以上)も続く景勝地だった。

鯖の話はこの八坂八浜の大坂を舞台にしたものだ。

馬の背に鯖を積んだ馬追に、行基(ぎょうき)が鯖を1匹くれとたのんだ。馬追が断ると行基は次のような歌を詠んだ。

  大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む

すると馬が苦しんで歩けなくなった。驚いた馬追が鯖を差し出すと行基は別の歌を詠んだ。

  大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む

そうすると馬の苦しみはおさまったという。

歌の違いは「で」と「て」だけというのがおもしろい。

この話は、四国遍路最古のガイドブックである『四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)』(1687年刊)に出ている。

寛永18年(1638)の8月から11月にかけての四国巡拝を記録した『空性法親王四国霊場御巡行記』にも、「八阪(坂)坂中鯖一箇、行基に呉れで駒ぞ腹痛と、詠ぜし茲は所なり」とあり、同じ話が『四国遍路道指南』の約50年前に既に存在していたことがわかる。

寛政12年(1800)3月から5月にかけての遍路の記録と写生をもとにした札所の詳細図からなる『四国遍礼名所図絵』にも、行基を登場人物とする同じ話が出ており、鯖瀬には行基菩薩を本尊とする「鯖瀬庵」があると記載されている。

喜代吉榮徳氏が紹介されている明治19年(1886)出版の『四国霊験記図絵』(繁田空山著)にも、「八坂八浜 行基菩薩古跡」と記された絵図に行基庵が出ている。

行基と鯖の話は長く伝えられたもののようだが、行基が弘法大師に変わり、行基庵が鯖大師に変わったのは、それほど昔のことではないようだ。
posted by namo at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | へんろ雑学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月24日

カレーハウス A-7(旧宍喰町)

もうずいぶん昔になるが、23番薬王寺から室戸岬へと向かう途中、海部川を過ぎた那佐湾の海岸沿いにあるA-7(エー・セブン)というカレー屋さんに入ったことがある。

店の前の海は細長い半島にはさまれているので、大きな川の河口のようにも見え、ちょっと変わった風景だ。

オーディオ設備にこっているようで、ビートルズのレット・イット・ビーやザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードのジャズアレンジの歌が高性能のスピーカーから流れていた。

野菜カレーにはキュウリのいためたものが入っていて、ボリュームたっぷりだった。

その後、何度か前を通ったのだが、お店は閉まっていた。たまたま定休日だったのだろうか?

以前はネットで調べても情報がなかったが、今ではYahoo!のカレー特集、「タウン誌オススメ どうしても行きたい 全国カレー店100」にも載っている。

また今度通るときには立ち寄ってみるつもりだ。


※宍喰(ししくい)町は、海南(かいなん)町、海部(かいふ)町と合併し、現在は海陽(かいよう)町になっている。どうもまだなじめない町名だ。
posted by namo at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 喫茶・食事処 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月15日

私のお遍路日記(佐藤光代/西日本出版社)

関西で活動しているフリーのテレビディレクターの、歩き遍路体験記。

「お遍路1日め」から「お遍路46日め」まで、お礼参りも含めて1日ごとの出来事がつづられている。

その日に歩いた歩数、距離、泊まった宿、出費などが表にまとめられており、同じくらいの体力で、これから歩き遍路に出ようと考えている人には参考になるかもしれない。

他の遍路体験記に見られないこの本のいちばんの特徴は、楽しいイラストがついていることだ。

1日の行程の簡単な手書き地図に添えられたイラストがあることで、雰囲気がやわらかくなり、とても読みやすくなっている。

「持っていくもの」「初日に買うもの」「参拝の仕方」「基本の服装」「宿に泊まる」「お接待」「山での歩き方」「おへんろって何?」「道しるべ」「おみやげベスト6」といった項目のイラストページも途中にはさまれていて、いいアクセントになっている。

ただ、「山での歩き方」のような、ちょっと?なものもあるが。

著者のお礼参りは、自分のお礼したい寺へ行こうと決めていたということで、37番の岩本寺を訪れている。

遍路データ:30代女性/歩き遍路(通し打ち)/2004年4月1日〜5月13日(88番まで)/43日間

book data:私のお遍路日記ーー歩いて回る四国88カ所/佐藤光代(著者)・浦谷さおり(絵)/西日本出版社/2005年

私のお遍路日記20cm.jpg
posted by namo at 20:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 遍路本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月06日

四国遍路への一遍上人と時宗(時衆)の影響

四国遍路は、真言宗を開いた空海の足跡をたどる道として知られているが、そこには、一遍上人(いっぺんしょうにん)と時宗(じしゅう)の影響もうかがえる。

一遍自身も四国と縁りが深く、有名な『一遍聖絵』には、岩屋寺の行場での修行の様子も描かれている。

『四国遍礼功徳記』の巻頭には、四国遍路でお大師さまに会ったという人に聞いた話が載っているが、そこには次のように記されている。

「くろきぬの衣をめしけると覚へ、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へり。征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、たヾめをとぢおがミ奉る計にてすぎぬとなり」

これは高野聖(こうやひじり)の姿と考えていいだろう。

一遍上人の高野入山以降、高野聖といえば時宗聖をさすほどにまでなったというが、鉦鼓を首にかけて念仏する姿は、まさに時宗聖を思わせる。

遍路の元祖として知られる衛門三郎の伝説では、衛門三郎は一遍上人の出自である河野氏に生まれかわることになっているが、宮崎忍勝氏は『四国遍路』(朱鷺書房)のなかで、次のように述べている。

「私は八十八カ所の成立に活躍した中世の民間宗教者の念仏聖や修験者たちが、頭領の一遍上人を讃える心を秘めた説話、それが遍路の元祖衛門三郎のように思えるのである」

四国遍路における民間の大師信仰普及に大きな役割を果たしたと考えられる聖(ひじり)たちには、空海だけでなく一遍の教えも流れていた。

一部を除いて女人禁制などもなく、ハンセン氏病の方など差別されてきた人たちを受け入れてきた四国遍路の寛容性は、一遍上人と時宗に深く影響されているように思われる。
posted by namo at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | へんろ雑学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。