2006年07月22日

空海や行基はなぜ鯖を欲しがるのか

前回、鯖大師の空海と鯖の話のもとは、行基であったことにふれた。

だが、弘法大師にしても行基にしても、なぜ僧がナマグサモノである鯖を所望するのだろうか?

空海や行基にささげられた鯖とは、もともと峠の神にささげられたサバ(生飯)だった。

サバ(生飯)とは、『広辞苑』にも出ているように次のような意味がある。

「食前に飯を少し取り分けて鬼神などに供するもの。屋根などにまいておく。三飯、三把、産飯、祭飯、最把、散飯とも書く。さんば。さんばん」

峠の神、手向け(たむけ)の神にささげられていたサバが、鯖の話に変わっていったというわけだ。

八坂八浜には峠が続く。鯖瀬の大坂峠を越える旅人や地元の人が、峠の神さまに飯粒を何粒かささげたりしていた民間信仰が、行基と鯖の話、そして弘法大師と鯖の話へと変化していったというのが、ひとつの民俗学的解釈だ。
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2006年07月17日

鯖大師と行基庵

23番薬王寺から24番最御崎寺までは80キロ近い長丁場で、歩けば2日以上かかる距離だ。1日歩いてもひとつの札所にさえ行き当たらない。

そのため、道沿いの番外札所に立ち寄る人も多い。

なかでも鯖大師(さばだいし・八坂寺)は大きなお寺で、別格二十霊場にも数えられ、お遍路さんにも親しまれている。

ここには弘法大師と鯖にちなんだ話が伝わっているが、もともとの話の登場人物は、お大師さんではなく行基(ぎょうき)だったという。

そして、現在「鯖大師」と呼ばれている霊場も、「行基庵」「鯖瀬庵」という小堂だったようだ。

このあたりは「八坂八浜(やさかやはま)」と呼ばれ、海辺の坂道をひとつ越えるたびに美しい浜が現れる。現在の車道を通っていたのではなかなか実感できないが、昔はそれが八つ(あるいはそれ以上)も続く景勝地だった。

鯖の話はこの八坂八浜の大坂を舞台にしたものだ。

馬の背に鯖を積んだ馬追に、行基(ぎょうき)が鯖を1匹くれとたのんだ。馬追が断ると行基は次のような歌を詠んだ。

  大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む

すると馬が苦しんで歩けなくなった。驚いた馬追が鯖を差し出すと行基は別の歌を詠んだ。

  大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む

そうすると馬の苦しみはおさまったという。

歌の違いは「で」と「て」だけというのがおもしろい。

この話は、四国遍路最古のガイドブックである『四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)』(1687年刊)に出ている。

寛永18年(1638)の8月から11月にかけての四国巡拝を記録した『空性法親王四国霊場御巡行記』にも、「八阪(坂)坂中鯖一箇、行基に呉れで駒ぞ腹痛と、詠ぜし茲は所なり」とあり、同じ話が『四国遍路道指南』の約50年前に既に存在していたことがわかる。

寛政12年(1800)3月から5月にかけての遍路の記録と写生をもとにした札所の詳細図からなる『四国遍礼名所図絵』にも、行基を登場人物とする同じ話が出ており、鯖瀬には行基菩薩を本尊とする「鯖瀬庵」があると記載されている。

喜代吉榮徳氏が紹介されている明治19年(1886)出版の『四国霊験記図絵』(繁田空山著)にも、「八坂八浜 行基菩薩古跡」と記された絵図に行基庵が出ている。

行基と鯖の話は長く伝えられたもののようだが、行基が弘法大師に変わり、行基庵が鯖大師に変わったのは、それほど昔のことではないようだ。
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2006年06月06日

四国遍路への一遍上人と時宗(時衆)の影響

四国遍路は、真言宗を開いた空海の足跡をたどる道として知られているが、そこには、一遍上人(いっぺんしょうにん)と時宗(じしゅう)の影響もうかがえる。

一遍自身も四国と縁りが深く、有名な『一遍聖絵』には、岩屋寺の行場での修行の様子も描かれている。

『四国遍礼功徳記』の巻頭には、四国遍路でお大師さまに会ったという人に聞いた話が載っているが、そこには次のように記されている。

「くろきぬの衣をめしけると覚へ、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へり。征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、たヾめをとぢおがミ奉る計にてすぎぬとなり」

これは高野聖(こうやひじり)の姿と考えていいだろう。

一遍上人の高野入山以降、高野聖といえば時宗聖をさすほどにまでなったというが、鉦鼓を首にかけて念仏する姿は、まさに時宗聖を思わせる。

遍路の元祖として知られる衛門三郎の伝説では、衛門三郎は一遍上人の出自である河野氏に生まれかわることになっているが、宮崎忍勝氏は『四国遍路』(朱鷺書房)のなかで、次のように述べている。

「私は八十八カ所の成立に活躍した中世の民間宗教者の念仏聖や修験者たちが、頭領の一遍上人を讃える心を秘めた説話、それが遍路の元祖衛門三郎のように思えるのである」

四国遍路における民間の大師信仰普及に大きな役割を果たしたと考えられる聖(ひじり)たちには、空海だけでなく一遍の教えも流れていた。

一部を除いて女人禁制などもなく、ハンセン氏病の方など差別されてきた人たちを受け入れてきた四国遍路の寛容性は、一遍上人と時宗に深く影響されているように思われる。
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2006年06月03日

辺路から遍路へ

古来の「辺路(へじ)」が「へんろ」と読まれるようになり、「遍路」という字に移行し、固定化されていった背景には、もちろん空海の影響が考えられる。

遍路の「遍」は、空海の金剛号(密教ネーム)である遍照金剛の「遍」だからだ。

お遍路さんには「南無大師遍照金剛」というご宝号で親しまれている。

真念に依頼され『霊場記』を書いた学僧・寂本(じゃくほん)は、「へんろ」という言葉に、「ギョウニンベンに扁」の字と、「礼」という字を当てたが、普及しなかった。

「礼」という字は巡礼からとったのだろうが、「ろ」と読ませるには無理がある。「へん」のほうの字も、ちょっとどうかと思う。

やはり、「へんろ」には「遍路」がしっくりくる。

それは遍照金剛の路(みち)、空海の道だ。

そしてそこには、一遍上人(いっぺんしょうにん)の「遍」も隠されている。
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2006年05月12日

60番横峰寺はいちばんの難所?

遍路の体験記を読んでいると、いまだに、「横峰寺はいちばんの難所と言われている」といった記述が見られるものがある。

実際に歩き遍路を体験した人なら、どうしてこのような言葉が出てくるのか不思議に思うだろう。

歩き遍路の多くは、12番焼山寺をいちばんの難所にあげる。

もちろん、天候や一日に歩く総距離などでその印象は変わってくるが、それでも、横峰寺をいちばんの難所にあげる人は少ないだろう。

ではなぜ、このような言葉が出てくるのだろうか?

これは昔のガイドブックを読んでいたならすぐにわかる。

今から二十数年前まで、横峰寺は車で近くまで訪れることのできない唯一の札所だったのだ。

横峰寺を打つには、湯浪か石鎚農協か、どちらから行くにしても、1時間半から2時間くらい歩かなければたどり着けなかった。

車でまわっているお遍路さんも、ここだけは歩くしかなかったのだ。

歩き遍路の体験のない人が、今でも机上で一部の孫引きガイドブックをつくりつづけているため、横峰寺がいちばんの難所という記述が残る。そうして、それを読んだ人たちが、その言葉を引用して遍路体験記を書きつづる。

歩き遍路の体験記の場合には、「実際にはたいしたことはなかった」という言葉が、そのあとにつづくことになるのだが・・・。

もう20年以上前から、「横峰寺はいちばんの難所」ではない。

歩き遍路にとっても、車遍路にとっても。

※ただし、台風などで道が崩れたときは例外。これはどの札所にも言えることだが。
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2006年04月18日

戒壇めぐり

戒壇めぐりとは、仏堂などの地下の暗いところを手探りでまわることで、長野の善光寺のものがよく知られている。

四国八十八カ所の札所のなかでは、35番清滝寺、51番石手寺、75番善通寺で戒壇めぐりができる。

清滝寺では大きな薬師如来像の台座の地下に戒壇めぐりがある。規模は小さく、1分くらいで出てこられるらしい。

石手寺のものはふつうの戒壇めぐりとはちょっとちがう。というか、戒壇めぐりと呼ぶのは適切ではないかも。ちょっとした狂気の世界?

善通寺の戒壇めぐりは本格的。御影堂の地下に約100メートルの暗闇のコースが続いており、科学的に再現されたお大師さんの声も聞けるとか。

個人的にはこの手のものにあまり魅かれないし、お寺のテーマパーク化というか、桂小枝的パラダイスとしてとらえていた。

だが、ちょっと考えてみると、戒壇めぐりの構造は、辺路(へじ)修行の行道(ぎょうどう)や、修験道の胎内くぐりとも似通っている。

戒壇めぐりのような俗っぽいものにも、古来の修行の伝統のなんらかの反映が影を落としているのだろうか。
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2006年04月05日

辺路(へじ)と行道(ぎょうどう)

辺路のいちばん大きな要素は「行道」だ。

それは歩くこと、巡ることで、大きく言えば四国を巡ることもそうだし、もう少し限られたエリアや、ひとつの場所を回ることも行なわれていたようだ。

たとえば室戸には、東寺(ひがしでら・24番最御崎寺)と西寺(にしでら・26番金剛頂寺)という二つのお寺があるが、東寺と西寺の間を巡ったり往復する行道もあるし、西寺の麓の海岸にある不動岩をめぐる行道も行なわれていたと考えられている。

天台宗の比叡山延暦寺には「にない堂」という建物があるが、これは法華堂・常行堂という同じ形の二つののお堂が渡り廊下でつながったものだ。

その一方の常行堂では常行三昧という修行が行なわれているのだが、それは本尊の阿弥陀仏の周囲を、坐臥することなくひたすら回り続けるというものだ。

天台宗には修験的要素が色濃く入っているので、こうした修行にも古来の「行道」がなんらかの影響を与えている可能性はある。

行(ぎょう)とはまさに行くこと、歩くこと、巡ること、回ることなのだ。
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2006年04月01日

辺路(へじ)と岬の火

火を焚くことも辺路修行のひとつとして行なわれていたようだ。

辺路修行者は火を焚いて、それを海のかなたの龍神あるいは常世の神にささげた。

しかし海洋宗教がすたれて立派な寺院などが建つころには、龍神から寺院の本尊などに火を献上するというふうに解釈が変わってしまった。

龍灯とは龍宮から献上された灯火ということになってしまったが、もとは龍神(海)にささげていたものだという。

また、岬や、海の見える山(ということは海からも見える)で焚かれる火は、漁師など海の民にとって航海の安全のための目印となり、海の民の信仰をあつめることになった。

室戸岬にある24番札所は最御崎寺(ほつみさきじ)と呼ばれているが、それは「火の岬」の寺という意味だ。

炎(火の尾・ほのお)、火垂る(ほたる)のように、火は「ほ」とも読む。「つ」は、天津神(あまつかみ)というように「の」と同じ意味だ。

「ほつみさき」とは「火の岬」、文字どおり辺路の行者が火を焚いた岬なのだ。
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2006年03月30日

辺路(へじ)は海の宗教

五来重(ごらいしげる)氏の説をもとに、遍路(へんろ)の原型となった辺路(へじ)の特性にふれてみよう。

まず第一に挙げられるのが、海とのかかわりだ。

辺路の聖地は、海辺にある、海が見える、海にちなむ伝承があるなど、海とのかかわりが深い。

辺路は海のかなたを拝む海洋宗教的側面をもっており、「海の修験」とも呼ばれている。

だが実際には、「海と山の修験」といったほうが正確かもしれない。

現在の修験道が「山の宗教」とみなされているために、海洋宗教的側面を強調するほうが、辺路の原初のかたちを明らかにしやすいので、「海の修験」といった表現が有効なのだ。

あまり海のイメージのない現在の修験だが、葛城二十八宿の友ヶ島の行場などは、古代の辺路をほうふつとさせるものがある。

現在の四国遍路の札所をみていくと、32番禅師峰寺には干満岩があり、岩のくぼみに溜まった水が潮の満ち干によって水位が変わるという。51番石手寺にも水天堂に干満水がある。これは、札所と海とのつながりを暗示している。

干満岩は日本三景の宮島にもあるが、ここも空海ゆかりの地だ。

内陸部にある45番岩屋寺の山号が海岸山となっているのも、海とのつながりを示していると考えられている。

葛城二十八宿・友ヶ島
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2006年03月27日

遍路の起源

四国遍路の起源は、衛門三郎伝説などの「おはなし」を別にするなら、空海以前から存在した古代信仰にさかのぼると考えられる。

空海自身も、その古い修行形態のなかに身を投じたということになる。

それは「辺路(へじ)」(辺地)と呼ばれる修行で、空海以降、大師信仰を中心として、やがて「遍路」として再編されてゆくことになる。

現在の四国遍路とのかかわりで、空海が実際に訪れているのが確実なのは、阿波大滝嶽、室戸崎、石鎚山あたりだろうか。

ゆかりの札所で言えば、阿波大滝嶽が21番太龍寺、室戸崎が24番最御崎寺・26番金剛頂寺、石鎚山が60番横峰寺・64番前神寺といったところ。

これは空海の著作である『三教指帰』に次のように記されているので明らかだ。

 阿国大滝嶽に躋り攀ぢ
 土州室戸崎に勤念す
 谷響きを惜しまず
 明星来影す
  (『三教指帰』序)

 或るときは石峰に跨がって
 粮を絶って轗軻たり
  (『三教指帰』巻下)

生誕地の善通寺周辺(71番〜75番あたり)もそれに加えていいだろう。

とはいっても、そこにお寺があったわけではないから、現在の札所の位置を空海が訪れたということではないのだが。

それ以外にも、空海が足跡を記した地として、他の文献などから間接的に推しはかれる場所も意外に多い。

五来重(ごらいしげる)氏は、空海が通った初期の辺路ルートとして、12番焼山寺から20番奥の院慈眼寺、20番鶴林寺、21番太龍寺を経て日和佐へ出て、室戸へと向かう道筋を推定しておられる。

足摺岬や、石鎚山への途上となる岩屋寺あたりも、辺路修行の地として、空海の訪れた可能性は高いようだ。

現在の四国八十八カ所のルートとはズレがあるにしても、空海以前から続くと思われる辺路修行の地が今もかたちを変えて息づいているとしたら、遍路の歴史の深淵は、人びとが思っている以上に深いのかもしれない。
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2006年03月02日

十里十カ所

1番霊山寺(りょうぜんじ)から10番切幡寺(きりはたじ)までは、昔から「十里十カ所」と呼ばれ、札所が密集している。

歩きはじめのお遍路さんにとっては、いい足ならしの場にもなる。

へん保協のデータでは、1番から10番までの距離は30キロ弱。霊山寺を早朝に出れば、1日でまわれる距離だ。

歩きはじめのウォーミングアップで距離を控えめにしたいなら、6番や7番の宿坊に泊まるほうがいいが、ふだん運動したりよく歩いている人なら、10番までは充分歩けるだろう。

この「十里十ヶ所」という言葉は、現在知られている最古の遍路日記である澄禅の『四国遍路日記』(1653年)にも出てくる言葉だ。

もっとも、澄禅は十里十ヶ所を残して、井土寺(井戸寺)から遍路をはじめ、観音寺、国分寺、常楽寺、一宮(現在は大日寺)、藤井寺、焼山寺とまわり、現在の1番から10番までの札所は、大窪寺のあとに訪れているのだが。
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2006年01月22日

橋の上で杖をつかないのは

遍路は橋の上で金剛杖をついてならないという。それは、お大師さんが橋の下で休まれているかもしれないからだ。

43番明石寺から44番大宝寺への道中に、十夜ヶ橋(とよがばし)という番外霊場がある。

ここは弘法大師が一夜の宿をこわれたとき、誰も泊めてくれる人がおらず、橋の下で一夜を過ごされた場所だとされている。

その夜はあまりに寒く、一夜が十夜にも感じられるほどだった。それで十夜ヶ橋と呼ばれるようになった。

この故事から、お大師さんの眠りをさまたげぬよう、遍路は橋の上で杖をつかない慣わしになったという。

橋はもともと、此岸と彼岸をつなぐもの、異界との接点のように考えられていた。サエノカミ(塞の神)とも呼ばれる道祖神は、橋のたもとや峠、辻などにまつられているが、これは異界との境を守ってくれる神様だ。

昼と夜のあいだのたそがれ(誰そ彼)時が逢う魔が時であるように、橋は逢う魔が場所だったのだ。

もしかしたら、橋の上で杖をつかないという遍路の慣わしにも、古い民俗的な慣習が名残をとどめているのかもしれない。
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2006年01月17日

金剛杖と大師の杖

お大師さんの分身として遍路に親しまれている金剛杖(こんごうづえ)。

1本の杖が弘法大師空海の象徴となった背後には、いにしえの民俗信仰的な流れが関係していたのかもしれない。

大師講(だいしこう)という民俗行事をご存じだろうか。弘法大師、元三大師、聖徳太子などをまつり、日本各地で旧暦の11月23日に催されていた年中行事だ。

大師講では小豆粥などを作って供えるのだが、このお供えには長い箸や、長さの違う3本の箸を立てたりする。3本のうちの1本は杖だと考えられている。

これを「大師の杖」という。

ここでいう「大師」は、もともと人間ではなく、神の御子、「オオゴ」「オオイゴ」(漢字で書くなら「大子」)とも呼ばれる来訪神だったらしい。

その神様は、所によっては1本足であると思われていたふしもある。

柳田国男は「大師講の由来」のなかで次のように述べている。

「十一月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られていたのは、ただの人間の偉い人ではなかったのであります。それをわれわれの口の言葉で、ただダイシ様と読んでいたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思っただけであります」

だが、現在では一部の地域を除いて、オオゴやダイシ様は人々から忘れ去られ、「ダイシ講」は生活の中からほとんど消えてしまった。

一方、金剛杖は遍路の日常のなかに生きている。遍路宿に着いたら、お杖の先を洗って床の間に安置するといった行為には、どこか民俗的DNAが感じられる。

オオゴやダイシは今、遍路の金剛杖のなかに、「お大師さん」とひとつになって、形を変えて生きているのかもしれない。

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2006年01月07日

知多四国八十八カ所と月山・篠山

愛知県の知多半島には、四国八十八カ所の写し霊場がある。

写し霊場というのは、四国八十八カ所の境内の砂を別の場所に持ち帰るなどして、その土地に八十八カ所の新しい霊場をつくることだ。

なかでも知多四国八十八カ所は「日本三大新四国」に数えられ、開創200年近い伝統がある。ちなみにあとの2つは小豆島と篠栗(ささぐり)だ。

知多四国八十八カ所には88の札所と10の番外があり、合わせて98カ所のお寺を巡ることになっている。

以前、知多半島の南部と、日間賀島、篠島を訪ねたことがあるのだが、篠島に番外の西方寺(さいほうじ)というお寺がある。

ここは「月山・篠山霊場」と呼ばれており、土佐国幡多郡月灘村の元月山大勢至菩薩と、伊予国南和郡一本松字正木の元篠山大権現十一面観世音菩薩が祀られている。解説書『知多四国めぐり』には「本四国遍路の際には必ず参詣される霊場」とある。

現在の四国遍路では、別格二十霊場などと比べても、月山(つきやま)神社や篠山(ささやま)神社を訪れる人は少ないが、かつては重要な霊場だったことがわかる。

月山神社(38番と39番のあいだにある)には以前行ったことがあるが、神社よりも、そこに至る道のりが、趣きがあっていいところだった。

篠山(39番と40番のあいだ)は訪ねたことはないが、「四国百名山」にも入っており、チャンスがあれば一度訪れてみたい。

知多四国に話をもどそう。ここでは本四国とちがい、納経帳の墨文字は印刷されており、その上から朱印を押すことになっている。

庭掃除をしている近所のおばあちゃんが朱印を押してくれたり、無人のお寺ではセルフサービスで自分で押すところもあったりと、素朴で楽しい。

ぼくが訪れた範囲では、お寺の人もいい感じだった(評判の悪い四国とちがって?)。

大伽藍があるとか重要な文化財があるとかいうことではなく、お寺のあり方そのものが身近で魅力的な場所なのだ。

特に日間賀島、篠島はおすすめだ。

※月山への道や神社についてはこちらが参考になる。
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2006年01月05日

衛門三郎伝説の元ネタ

遍路の元祖といわれる衛門三郎(えもんさぶろう)の伝説がある。

伊予の国荏原の庄(現在の愛媛県松山市郊外)の富豪、衛門三郎の屋敷に、一人の乞食僧が托鉢に訪れた。

衛門三郎は追い返すが、僧は次の日にも、また次の日にもやってきたので、ついに衛門三郎は怒って、僧の持つ鉄鉢をたたき落とした。すると鉢は8つに割れて飛び散った。

そうしてその日から、衛門三郎の8人の子は、次々と死んでいったという。

衛門三郎は、あの僧は弘法大師だったのではないかと思い、罪をつぐなうために四国を回りはじめた。

これが伝説の前半部分だ。

『梁塵秘抄』(平安時代の歌謡集)を読んでいたら、次のような歌が出ていた。

「法華経持てる人毀(そし)る
 それを毀れる報いには
 頭七つに破れ裂けて
 阿梨樹(ありず)の枝に異ならず」

これはもともと、妙法蓮華経陀羅尼品にある話らしい。

四国八十八カ所の縁起なので、7が8に変わったのだろうが、これが衛門三郎伝説前半部の元ネタなのかもしれない。
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2006年01月04日

歯長峠の名前の由来

42番仏木寺と43番明石寺のあいだに、歯長(はなが)峠という峠がある。

ちょっと変わった地名で印象に残る。

『宇和旧記』によると、治承年間(1177〜1181)に、足利又太郎忠綱という武将が源氏との合戦に敗れて西国に下り、歯長峠の一本木の奥の谷に隠棲したという。

忠綱の姓は、『吾妻鏡』には足利ではなく田原と記されているらしいが、歯の長さが一寸もあり、歯長又太郎と呼ばれていた。

峠の名はこれに由来しているようだ。

歯長峠の送迎庵見送り大師のある場所には、歯長寺(しちょうじ)の大伽藍があったが、焼失して、現在は国道56号沿いでJR予讃線の南側あたりに再建されている。
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2006年01月03日

四門(発心、修行、菩提、涅槃)

遍路の世界では、徳島、高知、愛媛、香川の四国4県は、それぞれ発心(ほっしん)の道場、修行(しゅぎょう)の道場、菩提(ぼだい)の道場、涅槃(ねはん)の道場に割り当てられている。

ガイドブックや体験記にもあたりまえのように書かれているが、星野英紀氏の研究などによると、このような観念は比較的新しいもので、戦後にはじまったもののようだ。

「四門(しもん)」という言葉を広辞苑で引くと、仏教用語として次のように記されている。

「密教の曼荼羅で四方をいう称。即ち、発心門(東)・修行門(南)・菩提門(西)・涅槃門(北)。葬場の四方の門にこの名を用いることがある」

四国4県を四門に当てはめるなら、位置的に見ても、東の徳島を発心の道場にするしかないわけで、うまくできている。

修験道でもそうだが、日本の密教では自然界を曼荼羅に見立てることは昔から行なわれていることだ。

四国4県を4つの道場とする観念が新しく考えだされたものであっても、それは遍路を行なう上で、ある種の指針や、心の区切りのきっかけにもなり、これからも受け継がれていくことだろう。
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2005年12月14日

オモシロ地名

遍路をしていると、変わった読み方の地名や、ちょっとおかしな地名に出くわすことがある。

16番観音寺と17番井戸寺のあいだにあるJR徳島線の府中(こう)駅も、最初は読めなかった。

室戸岬に向かう海岸線では、「ゴロゴロ」という変な地名もあった。

だが、いちばんオモシロかったのは・・・。

自転車遍路のとき、20番鶴林寺で、お坊さんに21番太龍寺への道を尋ねた。以前のへん保協の地図には車道は載っていなかったので、自転車でどのコースを通ればいいのかよくわからなかったのだ。

お坊さんは「鶴峠から川まで降りて、川沿いにサカリ大橋まで行って橋を渡ればいい」と親切に教えてくれた。

川幅が広く雄大な那賀川まで下り、言われたとおり川沿いに進んで橋を目指した。

ひとつめの橋は、歩きのときに渡る水井(すいい)橋だ。「サカリオオハシ、サカリオオハシ・・・」と目印の橋を探しながらなおも進んでいると次の橋が。

「十八女大橋」

これか・・・?

どこかにひらがなも書いてあったのでわかったが、「十八女」と書いて「さかり」と読むとは・・・。

遍路中にいちばんの衝撃を受けた地名だった。

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2005年12月11日

空海という名前

坂村真民さんの『一遍上人語録 捨て果てて』(大蔵出版)という本の前書きには、次のように記されている。


「仏島四国が生んだ二人の偉大な宗教家、それは真言宗の祖空海であり、もう一人は時宗の祖一遍である。わたしは縁あって、この島に渡ってきて、幼名を真魚といった人が、無空から如空へ、そして教海へ、さらに空海へと脱衣していった、その内奥の秘密がわかりたかった。それと同じように、幼名を松寿丸といった人が、随縁から智真へ、そして一遍へと脱却していった、その変容の事実が知りたかった。わたしも、そういうものを持っているからである。

室戸岬の突端にある修行の洞窟を訪ねたのも、空海が見た空と海とを、本当にわたしも見たかったからである。また一遍と名乗るようになったいわれの熊野本宮跡を訪ねたのも、そこにわたしも立ってみたかったからである」

  
実際にその場に立ってみる、歩いてみるといったことをすると、ひとつひとつ推測したりするプロセスをすっ飛ばして、突然なにか答えのようなものが浮かんでくることがある。

それは、言葉が浮かんでくるというよりも、意味そのものが突然おとずれるような感じ。言葉を発するには、あるいは聞くには、その始めから終わりまでに時間がかかる。しかし意味のほうは、全体が一瞬にあらわれ、あとからそれを言葉に広げていく感じがする。

足摺岬へと向かう道のどこかで、ぼくは空海の名前の変遷の、真民さん言うところの「内奥の秘密」が明らかになったような気がした。

その時は、真民さんの本も読んではいなかったし、空海の名前について考えていたわけでもないのだけれど、突然ひらめいたのだ。

「無空」という名は、仏教の最も根本的な教えのひとつである「空(くう)」に基づいている。

次の「如空」という名も、「如」には実体、真実、真如などの意味があり、「空(くう)」と結びついて、やはり仏教的な教えをにおわせる。「空(そら)の如し」と読めなくもないが、それにしても「空(そら)そのもの」ではなく「如し」がついている。

次の「教海」という辺路修行者らしい名前は、「海に教わる」のか「教えの海」なのかはわからないが、そこにはやはり「教え」というものが残っている。

そしていよいよ「空海」だが、ここにはもう「教え」は消え去っている。そして「空(くう)」ではなく、「空(そら)」と「海(うみ)」だ。

これは「思想」や「観念」の世界を通りぬけ、「現実に存在しているもの」へと回帰した、魂の変遷なのだと思う。

この流れをはっきりと理解するには、ヘッセの『シッダールタ』(高橋健二訳/新潮文庫)のなかの、シッダールタとゴーヴィンダの対話が助けになってくれる。


「一つの石を私は愛することができる、ゴーヴィンダよ。一本の木や一片の樹皮をも。ーーそれは物だ。物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。教えは硬さも、柔らかさも、色も、かども、においも、味も持たない。教えはことばしか持たない。たぶんおん身が平和を見いだすのを妨げているのは、それだ。たぶんことばの多いことだ。解脱も徳も、輪廻も涅槃も単なることばにすぎないからだ、ゴーヴィンダよ。涅槃であるような物は存在しない。涅槃ということばが存在するばかりだ」

ーー中略ーー

ゴーヴィンダは言った。「だがおん身が『物』と呼ぶものは、実存するもの、実体のあるものであろうか。それはマーヤ(迷い)のあざむき、形象、幻影にすぎないのではないか。おん身の石、木、川ーーそれらはいったい実在であろうか」

「それもさして私は意に介しない。物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。物は私の同類だということ、それこそ物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。この教えにはおん身は笑うことだろうが、愛こそ、おおゴーヴィンダよ、いっさいの中で主要なものである、と私には思われる。世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念じるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と讃嘆と畏敬をもってながめうることである」


詩人である真民さんは、こうした言葉に共感してくれると思うのだが・・・。

posted by namo at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | へんろ雑学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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